6月も11日になりましたね。ぼく自身はささやかな心身の状態の変化に一喜一憂を繰り返しているだけで、結局のところ、どれだけ昨秋から改善しただろうと思う中にいるわけですが、月日は残酷なほど規則正しく、そして、素早く通り過ぎています。
どうも自分の中にある、ぽっかりとした隙間は何なんだろうと常々思っていましたが、今日なんとなくその正体を正面から見たように思います。裏を返せば今日はそんな最悪の日でありました。
あっ、こりゃあ、すっかり「治って」も、この空虚な感覚から逃れることはできないなと。
今、我が身を守る砦のようにしがみついている夢も、コイツをかたちにしてやれば、ぼくは長年の呪縛から解き放たれて、相当気楽にやっていけるだろうと思っていました。しかし、どうやらそうでもないようで、それがわかったら、とっととコイツもかたちにしてしまった方がいいと思えてきました。
最後は嫌でも自分のことは自分だけの中にあり、そこからは逃れられないなとわかったと言いましょうか。なんとも具体的なことのない抽象的な話で、読んでくださってる方には雲をつかむような文章ですが、そういう感覚をはっきりと認めていいと思ってしまったと言いましょうか。
夜になり、家族さえ疎ましく感じる今日は、久しぶりに外に出ています。
わかってもらいたいと望むことも面倒なことだなと思え。
これだけは報われたいと思っていたこともさしたることではなく思え。
ここに徹するとからださえ戻れば、あとは気軽に復帰できてしまえそうです。周囲に何も期待しなくなっている自分に徹すればいいだけのことですから。
ようするに、自分のことは自分がわかっているというより、自分にだけしっかり刻み込まれていくのです。人はその陰影やら相貌から自分をわかってくれようとしたりしますが、刻み込まれたことそのものは、自分が受け止めているのです。その刻み込んだものに解説を入れて、他者に何かを期待するのは無駄なんだなぁとわかったと言いましょうか。
とりあえずその自分に刻み込まれ続けてきたものから、純粋なエッセンスだけを丁寧に抽出して、ひとつのかたちのあるものにまとめてやることにして、あとのことは、常に自分にわかっていればいいと考え、明日から歩きだしそうです。
ぼくはこの休みから戻るとき、今までよりもっと人を素直に求める人間になっていくのではないかと、ひそかに考えていましたが、それはまったく逆になりそうです。
あらゆるものと人にとって、過ぎ去るだけのものとしての自分ってヤツになりきって。
その過ぎ去ったものがどんなものであったかは、きっちり自分が受け止めて。
そんなふうに歩くことになりそうに思えます。
土曜日、ぼくはきっとそんな自分をきっちりと確かめてくるでしょう。
戻るべき場所で。
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